
古川町商店街は昔より古川町通りと呼ばれ、かつては“東の錦”もしくは“京の東の台所”と呼ばれておりました。
『京都坊目誌』によれば天正(安土桃山時代)以前より若狭街道(通称:鯖街道)として南北に通っており、長い間廃道のまま田畑にされておりましたが、寛文6年(1666年)に復旧され古川町通りとなり、同時に町地に編入され青蓮院領粟田新町13組に属しました。町名の由来は、近くを流れる白川の旧流水路または畑地の字地名によるといわれています。現在も小さな町地が密集しており、通りの中心部に古川町があり、北に分木町・八軒町・南西海子町、南に唐戸鼻町・稲荷町があります。
文化年間(1804~1817年)以降においては附近に人家が密集して市街地化が急速に進むことになりますが、古くは宝暦12年(1762年)の『京町鑑』によりますと、「古川町通り是古の若狭街道也。此通り三条より知恩院、古門前まで凡五町程の間」と記されております。現在の商店街北入口と交差する三条通はかつての東海道であり、京都の表玄関として交通の要点で、知恩院、八坂神社、清水寺への参道として人の往来が盛んでした。知恩院門前町として東は大津、山科、北は北白川、八瀬、鞍馬方面よりの来客があり、繁盛を極めました。
主に食料品、日用必需品をあきない、明治以降も同様に繁盛を来しましたが、周辺居住地域の開発と共に次第に商圏は狭まれました。

商店街の整備、近代化に努力し現在に至ります。
戦後、昭和25年早々に古川町朝日会として発足し、翌29年に京都商店連盟に加入、昭和38年に簡易アーケードを建設、昭和39年に商店街振興組合に法人化、昭和47年には本格アーケードを建設、昭和56年に統一看板を設置、南北約300メートルの通りの中に約50軒もの店舗が立ち並ぶ商店街となり、以降も商店街の整備、近代化に努力し、店舗数は減少しましたが現在に至っております。










